うどんの食べ方

考えていることや、考えたことを忘れないためにも書いておこうと思います。

これまで読んできた本たち。キンドルの良さ【追悼】エリックカールさん『はらぺこあおむし』

〇幼稚園、小学校入学前

寝る前に絵本を両親のどちらかに読んでもらうのが日課だった。今思い返せば今日はどちらが読むんだと、父母2人が押し付けあってたなと思う。たしかにめんどくさかったんだろう。

量で言うとかなりたくさんあった。そのなかからピックアップして「今日はこれ」とリクエストする方式を採用していた。僕と弟が一緒に寝ていたがそのどちらかが選んでいた。

思い出せるものは『ぐりとぐら』シリーズ『はらぺこあおむし』『ピッツアぼうや』『とんとんとめてくださいな』『ふくろにいれられたおとこのこ』

題名が出てこないが記憶にあるのは、文章が無い絵本で女の子が傘をお父さんに届ける話。傘だけ赤くてそれ以外は白黒だった。文章が無いシリーズで雲が擬人化されていて冒険だったか何かの話。絵がラッセン系統のリアリティグラフィックで記憶に残っている。

あれだけたくさんあったのにこれしか思い出せないとは両親に申し訳ない限りだが、子供なんてそんなものなんだと思っておこう。あといろいろとこれが教育にいいとかこれは悪いとかいろいろな論議が子育て絵本にもあるようだが、少なくとも当時の記憶を掘り起こした限りだと的外れ感が否めない。子供が好きなものに理屈や筋は無い。「このえがすき」「なんかぶきみ」で惹かれたり全く惹かれなかったりもする。

ようするにいくら考えても仕方ないのでうちの親のようにたくさんの本を読み与えるか、なにもしないかでいいと思う。

少なくとも自分にとっては良いことでその後も本を読む習慣が自然と身についた。

ちなみにそれらの大量の本は小学校に寄付したらしい。

 

〇小学生

近所の図書館は小さかったので少し離れた隣の市の図書館に車で行っていた。

読み聞かせの絵本からレベルが少し上がっている。『かぎばあさん』シリーズ『シートン動物気』『ファーブル昆虫記』『ドリトル先生』いわゆる児童向けとうたわれている本はだいたい読んでいたと思う。シートンの「狼王ロボ」の話がとても好きだった。たしかメスを捕まえるか殺すために雄の身体を切り刻んで、、、と変な風に記憶していたが、今調べたら全然違った。雄が残って最愛のメス、ブランカが先につかまるのか。それでロボは悲しみに暮れ捕まったのちに餌に手を付けず死ぬらしい。最後にシートンが感動していたのはなんとなく覚えている。解決ゾロリなどもおそらく全巻読んでいると思う。いししとのしし。いいキャラクターだしネーミングが素晴らしい。エンマ大王に舌を伸ばされるときにガムを噛んでいた描写が目に浮かぶ。

怪人20面相もこの頃にはまった。20面相の身体能力の高さがうらやましかった。何の話か忘れたが、助手の少年が20面相を追い詰めてあと少し!というところでひらりと屋根に逃げられ見失う、というシーンがあった。その時20面相は雨どいをつかんでそこを支えにして屋根に飛び移っているはずだ。体操の鉄棒競技のように。雨どいにそんなに強度があるのかと疑問におもったのを覚えている。あと小学生低学年で下なしおにごっこや木登りの全盛期だった。誰も行けないところに行けるのはヒーローを意味していた。だから20面相がうらやましかった。雨どいつかんでひらりと屋根に、なんてと本気で夢想していたのを覚えている。

低学年のシートンドリトル先生から少し記憶が抜けているような感じがするが、次の記憶は、はやみねかおる作品だ。

これはもうめちゃくちゃに面白かった。『そして5人がいなくなる』探偵?のよれよれ黒服に黒いサングラスのおじさんと3人の女の子が表紙のやつ。これが家にたまたまあって手に取ったのがきっかけだったはずだ。姉のものだったのかな。ジョーカーという華麗な銀髪の盗賊シリーズ、リアルRPGとよばれる現実世界でおきるさまざまな課題をクリアしていく2人の少年トムソーヤーシリーズ。どれも全巻間違いなく読んでいる。トムソーヤシリーズには影響を受けた。岩に傷をつけて隙間に木の皮を挟み込む。湿らせておく、まつ。すると何時間後かにわれている。本当か。タオルを結び付ける、湿らせる、木の枝に投げる、巻き付く。すると登れる。たしかに。いまでもたまに思いだす。ショッピングモールの何階かから傘のビニールを結び合わせて体に巻き付け、飛び降りる、だいじょうぶ。本当か?

これは小学校6年くらいまで続いていた流行ではないかと思う。

小学校3、4年を思い出した。僕らと駐在さんシリーズ、あれは危険だ。先生に反抗したり、火薬使ったり燃やしたり、危険なことをそそのかす。本当に先生に黒板消しを落とそうと必死になったりした。

並行してダレンシャン、デモナータシリーズも大流行した。ダレンシャンは多分小学校3、4年のころか。仲のいい友達に教えたら大はまりしてその友達のお母さんに感謝されたのを覚えている。ダレンシャンのクレプスリーが生きてたら、の空想の章は忘れられない衝撃だ。しかし彼は死んでしまった。それにしてもあの騙し章はひどい。まだ幼かった自分は本当にあれが起きたものだと信じたものだ。まさかそんな。

山田悠介『Aゲーム』が流行ったのは小学5、6年だった。『スイッチを押すとき』はよかった、Aゲームやそれ以外のゲーム系はなんか単調だ、リアル鬼ごっこは設定に無理がある、などと世間の流行に対して、すこし斜めに構え始めたのもこのころだったんじゃないだろうか。

〇中学

野球部に入って、ワックスで髪の毛を上げて眉毛を細くした。それでも本を読んでいた。学校の図書館の蔵書がとんでもなくて感動を覚えた。

小学校終わりから中学にかけて父親が読んでいた世間の流行本、東野圭吾池井戸潤、雫井秀介、誉田哲也高村薫百田尚樹を読み始めた。周りであまり読んでいる人はいなかったのでこれは斜めに構える必要はなかった。シンプルに面白かった。ストロベリーナイトはすごい。竹内結子さんの映画を含めて素晴らしかった。容疑者Xの献身はいまでも東野圭吾No1だ。(そんなに読んでない)雫井秀介の健康のために四肢を切り落とす医者の話は、これは画期的だなと本気で思ったところでサイコ医者ものだったと気づき、いろいろな意味でショックだった。百田尚樹で一番好きなのはボックスでもモンスターでも海賊でもなくて錨をあげよ、だ。村上龍にどっぷりはまったのも中学のころか。初めは歌うクジラだった。小6で読んだ。意味が分からなかった。変にエロが入ってくるので童貞には処理しきれなかった。父親はどういう意味合いで読ませていたのだろう。中学で愛と幻想のファシズムに感動した。自分ならスズハラトウジになれると思った。ゼロが嫌いった。アラスカに狩りに行きたいとこのころから本気で願うようになった。中2で書いた将来の夢は旅人。

たしかこのころ初めて読書をすることが偉いことだと認識する。まず教室で本を読んでいる人間はあまりいない。図書館で借りた本を机に置いていると先生が「おお、これ全部読むの?えらいねー」と声をかけてきた。なんだそのお世辞っぽすぎるお世辞は、と思ったが今思えばたしかにそのお世辞は成り立っている。その感覚がわからなかった。一般的に本を読むことが偉いといわれていることが本気でわからなかったからだ。

弁当を食べながら面白すぎて本を読んでいた。みんながグループで食べているので本を読みながら食べていた。浮いていたりいじめられていたわけではないのだが。しょっちゅう話しかけてきてうっとうしかった。今思えばあれは周りが気を使っていたのかな、と思う。

みんなに読まれていてよんでいなかったハリーポッターも中学で読んで面白すぎた。世界中の批評を耐える作品はまだそれほど年月を耐えていなくても価値がある。

さっきの読書がえらいと認識してから、少しずつ価値観が変わっていった。えらいっぽい本を読んだりした方がいいのかな、と考えたりした。ニーチェ全集を開いたり全く興味のない書棚から本を選んだりするようになった。ほとんど面白くなかったので記憶にない。

新渡戸稲造の武士道も中2のテスト期間に部活が無い間に読んだ。内容はまったくだ。ただ「読んだ」というために読む。そうゆうことをするようになった。

〇高校

部活がとんでもなく忙しくなる。スマホを手にする。紙の本を読むことがかなり減った。単語帳を電車で見るようになった。

大学受験が近づくにつれて周りが単語帳を折って、自分仕様にしていく中でまた流行に斜めに構える悪い癖がでる。電車自習室では新聞を読むようになった。部活していれば大学にはいけるので勉強もしなくなった。本はちょろちょろ父親が面白かったという本を読むくらいだった。柴田哲孝『GEQ』面白かった。ほかの作品も一気に読んだがGEQが一番。本当だと信じてうんちくぶって友達に話したりもした。いい迷惑だ。

のぼうの城の作者もいい。ジョーカーゲームシリーズや新作が吊り下げ広告にでたりしてわくわくしていたのを覚えている。池井戸潤誉田哲也はコンスタントに出してはいたがだんだん手に取らなくなっていった。なぜかはわからない。父親はあいかわらず武士道シックスティーンが好きだった。

貴志祐介の魔法をつかう話、タイトルは失念したがあれは面白かった。黒い家や悪の経典のようなサイコホラーが人気だが個人的には彼の真骨頂はSFだと思う。新世界よりだ、思い出した。

〇大学

高校卒業から大学にかけて、IQ84を読んで引き込まれた。しかしなぜかここでは村上春樹にはまったわけではない。

大学1年の真ん中頃、高校の友人と久しぶりにあって『風の歌をきけ』を渡されて完全にはまった。もうここからは、ブックオフがあったら「む」に直行して村上春樹の読んでいない100円作品を買い集めて読む生活だった。たまに横の龍のよんでいない作品を一緒に手にする。

村上春樹で一番好きなものは『風の歌を聴け』だと思うが、自分はエッセイや邦訳も好きだ。『たのむから静かにしてくれ』独特のレイモンドカーヴァー節だが村上春樹の訳じゃなかったら読めたものじゃない、気がする。彼のエッセイでエントリーシートに何を書くか迷っている若者に対するアドバイスがあった。タマネギの肉詰めについて書きなさいというのが彼の答えだ。これは今でも使わせていただいている。いろいろなバージョンで。

大学では文系だったが、中学で患った「「読んだ」というために読む病」をこじらせ、それはそれは多岐にわたって読んだ。読まないといけなかった。三島も読んだし、ドストエフスキーも、プラトンも、国際関係系も論文も。たくさん「目を通した」。たいていが無駄な時間だったなあと今になれば思う。いや、少なくとも今の自分を構成する何かしらにはなっているだろうし、現に今こうしてかくためにネタになってくれているのでそれだけでもいいのだが、別に無理してよまなくてもねえ、という感じだ。

ビジネス書と自己啓発だけは手にしなかった。文系学部にはそうゆうところがある。古典至上主義、今人気がある本はくそ、と言っておけばとりあえず間違いはない。カーネギー7つの習慣、ハーバード睡眠本、流行のタイトルだけ把握して中身は知らないそれで良かった。

大学での読書週間がかなり自分にとって負担だったのか、あまり本を読むのが好きじゃなくなっていた。読んだらそれに関して何か批判しないといけないし、感じないといけない、そう思ったりした。オーウェンの1984、夢野久作少女地獄、安部公房砂の女遠藤周作わたしがすてた女、谷崎は陰翳礼讃ではなく春琴抄、ぱっと思いつくこのような素晴らしい名作に出会えたのはこの期間があったからだ。しかし小学校のシートン動物記を読む素直さがなかったのが悔やまれる。

最近になって、キンドルを買った。キンドルアンリミテッドも始めた。

これまで紙の本にこそうんたら、と言っていたが使っていたらかなりいい。軽い、読みやすい、電池も持つ、何よりそれ一つでたくさんの本が入っている。

本当にいろんな本が980円で読めていい。食わず嫌いしていたビジネス書もよんでみた。「最短で~を確実に成功する~」のような見るからに無価値の本を読むこともいいと思ったりもした。これまでのすこし偏った、「教養病」に侵されていた自分をフラットな位置に持ってくるためにも少し乱暴な治療が必要かなと思ったりもして、読んだ。980円だし。だが、読めば読むほどここまで、できてきた自分が壊れる気がしてやめた。それは嫌だった。

哲学書がトップに出てきたので読んでみた。ニーチェのツラトゥストラはわけがわからず辞めた。セネカはわかりやすくてよかった。ソクラテスの弁明は思っていたのと少し違って驚きがあった。

今は日本人作家ハードボイルドを主に読んでいる。矢月秀作、黒川博行、昨日呼んだ馳星周はかなり好きだ。テンポ世界観、ダークさ、汚さ、言葉、バッドエンド。

自分の知らない世界がこんなに残っているのかといまさらながら認識して、ただシンプルに本を楽しめるようになった。

キンドルのおかげ