うどんの食べ方

考えていることや、考えたことを忘れないためにも書いておこうと思います。

「フォロワーの数はそれ自体が資産」ということに対して思うこと【決意表明】

何年くらい前からこうゆう事は言われ始めたんだろう。

少なくとも僕が中学高校のころ、ようするにスマホが全世代に普及し始めたころ。

ガラケーミクシィ掲示板とかが流行っていて(やってなかったけど)テレビでは「ネットがいじめにつながる」とか「子供が課金でうん百万つかって」てなことが騒がれていたころ。

 

 

当時から「えーフォロワー〇人、すごい」といった肌感はあった。

でも自分の周りに関してのみ言えば、Twitterでフォロワー多いやつはオタクっぽいやつだったし(今思えばギャクセンかなり高かった)ネット上の顔知らない友達とか、は?って感じだった。

だから絶対ツイートはしなかったし、んなことしてどうすんだ、と自分を貫いてきた。(かっこいい)

 

いまになって思えば完全に典型的な時代に乗り遅れて損するタイプの頑固偏屈親父候補生筆頭だ。

 

徐々に時代が変わって電車に座っている人の7/8人がスマホになって(本当にみるみる変わっていった)「インスタ」をやらない方がマイノリティになって、街の女との連絡先の交換はメールアドレスでもラインでもなくてインスタのアカウントになっていって。

このくらいからフォロワーの多いアカウントが売れるということを知った。7.8年前?

 

もうここまできたらただ自分を貫くか貫かないかの個人の葛藤である。そしてその葛藤に打ち勝ってきた人が、僕だ。(かっこいい。2回目)

 

このブログを始めたきっかけは、たしかこの葛藤の産物だった気がする。

2年ぶりに地元に帰って友人と会うと、なぜかその友人は自分の最近の動向を知っていたりする。

「この前上野動物園でラバ見ながらビール飲んでたんだよ、そしたらさ」

「あー、○○のストーリー見た見た」

「!?」

とせっかくの話の腰を真っ二つにおられる。悲しい。

 

おそらく本能的にずっと自分の生きる場所をインターネット上に欲していたのだろう。ブログなら、と思い始めたのだと記憶している。

 

始めるとキーボードに向かって書いていく作業はとても楽しい。誰に読まれていなくても。

でもこれが頻繁に人に読まれ、拡散され、高評価や低評価、たくさんのコメントにさらされると思うと自分のもろい心は耐えられるのか、と不安は消えない。いらぬ心配。

 

幸い今の仕事にSNSのフォロワーは一切必要ないし、この先も必要にはならない。公務員なので。

でもこの前ふと思ったのが、突然怖い人に「来週までに100万稼げ」って言われたらどうしよ、自分にはなにもないな、と。

資格も特にないし、ものをつくって売ったこともないし、仕入れたり、金を借りたりしたことすらない。

いつの日か西成で日雇いに朝4時から並ぶ長蛇の列をみて、金を稼ぐのは甘くないなと感じたのを思い出す。

 

高校の政経の授業で先生に言われた言葉

「今の君たちは残念ながら付加価値0。これからは付加価値を高め続けて必要とされる大人になりましょう」

うん。刺さる。「高め続け」ないといけないんです。

今のお給料は決して悪くはないけど、付加価値高める努力は、していない。書類作って資料作って。

  

現代社会に生きる多くの現代人は、ソーシャルネットワークという世界で当然のように息をし、生活している。そして今の小学生、中学生にとってそれはもはや特別なことですらない。

 

と、考えると将来子供ができたときに「うちの親父は昔の考えを引きずって云々」と言われる未来を想像した。辛すぎる。

 

ここまで1000字以上書いた。これくらいしないと自分にとってのこの硬い殻は破れない。

これからは苦手だったソーシャルネットワークの世界でも生きていく努力をしようと思う。頑固偏屈はなにもかっこよくない。

別にフォロワーが増えてお金が稼げるわけではないが、自分にとってはソーシャルネットワーク界に足を踏み入れるという挑戦にとてつもなく価値がある。

自分の書いたプログラム投稿したりするのを、意味わからん誰に見せてんの、とか言うのはなし。

逆らおうとするのはもうおしまい。

 

頑張るぞ。