来訪者0のこのブログを、どうすれば読まれるようになるか
と、考え少し調べてみた。
わかったことは、
・SEO
・コンテンツの需要
の大切さ。
本ブログは今のところ、このどちらも大切にしていないので新たに読者があらわれる可能性は限りなく0に近い。
そして無駄が多くて冗長な僕の文章をわざわざ好き好んで読む人は今のところいない。
ということはこのままだと、あと500万記事書こうが、もし世紀の大発明をしてここのブログで発表しても(SNSを他でやっていない)誰にも認知されないということだ。
これはある意味ではすごいことではないだろうか。インターネットにおける「超満員の電車のなかで、めちゃくちゃ匂う人の周りだけぽっかり空いたスペース」
的な役割を今後は担っていくことになるのかもしれない。
もう嫌にならない!上司との微妙な10分の世間話を楽しく乗り切る20の方法
目次
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1 なによりも上司の名前を覚える!
皆さんが後輩と話しているときに「武田さんは~(本当は滝本さん」なんていわれたらどうですか?・・・
とかいった「需要のある」情報を発信して、(ふざけた)ブログを書いていって、(くそどうでもいい誰でもできる)人間関係にしぼったテーマを扱って、SNSでブログの更新を発信して、リンクを張ってもらうためにも積極的に人気のブロガーをフォローして、とやれば読者がだんだんと増えていく可能性があるらしい。
やってみようかしら。でもなんだか気持ち悪い気がするのは自分だけ?
こうやっていつもいつも周りのことを少し小ばかにしたような態度をとって、斜に構えて、すこし俯瞰して、絶対自分はやらずに、物事をを見てたらいつのまにか25歳になってしまったわけだが。
そしてこの性格は現在の本職以外にも収入を得てみたいという、この試みをも阻害するわけか。
いつからだろう。小学校3年生のとき全校一斉に将来の夢を描いて廊下に貼る課題があった。「甲子園のマウンドに立つ」という1学年上の同じ野球チームの先輩のを見てこう思ったのを覚えてる。こいつは正気か?(めちゃくちゃ下手だった)
それから自分も間に合わせの「プロ野球選手」なんて言っていられなくなり、じゃあ現実的で夢のあるっぽいことでパイロットとか、海保(海猿)とか適当に言い続けていたら10年くらいが過ぎいつの間にか大学に入って現職に至る。
気持ち悪い、で思い出したが
自分は「コロナ禍」という言葉が嫌いだ。あと「最近、どこどこ増えてるよね(やばいよね)」という感染者数の推移に関する世間話も大嫌いだ。
この気持ちの原因がわからなくて困っている。
昨晩話をしていて、この話になったときは
「そこに人一人、また家族の人生があるっていうのに完全に他人事でうんたら」
だからだと言いそうになったが、さすがに口にする前に明らかに本心ではないと思いやめた。少し考えて
「多くの人は政府の対応や、エビデンスの不確かさなどを取り沙汰している。論理的な批判。ここまでは良い。にもかかわらず感染者数という数字は絶対的な気温や雨量かのように疑いの目をもたずに、『東京から来たの?東京やばいじゃん』といった差別的なことをいったりする。論理的ではない。エビデンスは?この都合のいいところだけ「論理的な」思考過程がアパルトヘイトを許容した南アフリカの白人と似ている気がする」
とか思ったがなにか違う。しっくりこない。ただの言いがかりになっている気がする。
そもそも数字はある意味で絶対的なので、それをもとに皆が意思決定することは正しい。
ではこの「最近またふえてるよね」話に対するこのイライラ感はどこに端を発しているのか、わかる人がいたら教えてほしい。読者0だけど。