うどんの食べ方

考えていることや、考えたことを忘れないためにも書いておこうと思います。

うどんとナポリタンとコーヒーと

ナポリタンはイタリア料理ではなく日本発祥の料理だと知ってはいたが、「分類は?」と聞かれると困ってしまう。和食か洋食か、はたまたイタリアンか。

 

昔から文章を書いたり読んだりするのは好きだった。デレクハートフィールドは、完璧な文章なんて存在しない、と言うけれどそれぞれが書くものがそれぞれの「完璧」であって追及するものでも批判しあうものでもない、と言うのが僕の考えだ。

 

うどんもそうだと思う。うどんを食べるのはコーヒーを飲むのに似ていて決してグルメ好きが「うーん、ここのうどんはコシが強すぎるけど角がたってないから云々」と言ったことをしたり顔で語る対象では無いのだと思う。

 

コーヒーを飲むのに似ている、の意味を説明すると、コーヒーはその味自体が話題の中心になりがちだが僕にとってのコーヒーはミルで豆を挽くところから飲み終わったコーヒーカップを洗って片付けるところまでの行為全般を指す。その味も大事ではあるけどその行為の方がよっぽど大きな意味を持つ。

 

うどんを食べる、ということについて考えさせられたのもきっかけがあって、このゴールデンウィークに香川に行ってうどんの人気店で1時間30分まった。本当に1時間と30分。うどん屋に、だ。

 

もちろんそれだけ並んで食べたうどんは美味しかった。美味しかったと思わないと頭がおかしくなってしまうのかもしれない。こんな言い方すると実は美味しくなかったのに無理をしてるように聞こえるけど、実際とても美味しかった。色々うどんは食べてきたけどやはり讃岐のうどんは美味しい。なんだか元を取ろうと思って3杯で4玉も食べてしまってはちきれそうになったが、とにかく美味かった。

 

その後も昼ごはんにうどんを食べるために30分並んだ。この辺から何かしらの違和感を感じてることには気付いていた。この違和感はこの後すぐに解消されることになる。

 

全て美味しくて、その美味しさを一緒にいた人に伝えようと下手くそな食レポみたいなことをしたりもした。それこそ「冷ぶっかけはそのうどん屋の実力が真に出るんだ。理由はうどんの生地そのものの云々」的なやつを。今でも思い出すと恥ずかしく顔がぽっとなる。

 

帰りの高速バスを待っているとき。高松駅に行ったことのある人なら誰もがみたことあると思うが、ロータリーのところからみえる「讃岐うどん」の大きな看板。うどんを食べに行った人でもそうじゃなくてもその主張の激しさに少し気圧されて入ることのなさそうな感じの看板。バスの時間まで残り20分と少しだったと思うが意を決してそこに入った。最後にもう少しうどんが食べたくて。幸いとても空いていた。普段の丸亀製麺くらい。いつも通り、ぱっとお盆をとってぱぱっと注文してとんっとうどんが来て、じゅるっと平らげた。

 

 

はっ、とした。

 

 

うどんという食べ物。うどんは決してグルメではない。観念なのだ。例えるならばスピード感が大切な一種の儀式のようなものか。その行為自体で価値を発揮している。麺の食感を論じたり出汁の取り方を批判したり、するのはいい。むしろそう言うことがより美味しいうどんを生み出すのならば応援したいくらいだ。

でも「うどんが好き」ということはそれとは全く違う、のだろう。うだうだ言うために並んだりするのは誰か他の人に任せてればいいんだ。

もともと知っていた事をすごく遠回りをして再確認したような、そんなまどろっこしいけどなんだかとても気持ちが良いようなそんな気分になった。思い出したいけど思い出せないことをふとした拍子に思い出せた、そんな気分に。

 

この話はこれで終わりだが、終わるにあたって少し言っておきたいことがある。僕の文章は大部分を村上春樹に影響を受けている。他にも多くの作家の影響を受けてはいるのだろうが、直接的に意識しているのは彼だと自信を持って言える。

しかし今日初めて読んだ彼のエッセイ集はもっと簡単でもっと冗長でかつ短くてなにより要点がまとまっていて、テンポがよかった。

 

まだまだこれからか。完璧な文章を書くためには。